点訳アラカルト


第39回 校正おそるべし
2006.03.17

「校正(proofreading)おそるべし」というのは、勿論、「後世(future generations)畏るべし」という論語の言葉をもじったものですが、印刷物の校正というのは、簡単なようで、実は多様な困難な問題をはらんでいます。

校正に関して、一番有名な話は、1631年の“姦淫聖書”の事件で、これは、旧約聖書のモーゼの十誡の中の「なんじ姦淫するなかれ」thou shalt not commit adultery の「not」が何故か落ちてしまった。「なんじ姦淫せよ」になった訳で、印刷者は処罰され、印刷物はすべて焼き捨てられた、という事件です。

楽譜点訳の場合それほどの重大事件は起こらないとは思いますが、点訳ミスがあれば、正確な音楽の再現が妨げられるのですから、校正の責任は重大です。点訳者のミスを校正者が見落とした場合、利用者の手に渡った時に「トニカの点訳にはミスが多くて・・・・」ということになってしまいます。

私も始めの頃は、点訳は大変だけど校正は楽だ、などと思っていましたが、次第に校正の重要さが判るにつれ、校正もそう簡単なものではないな、と思うようになって来ました。

第一に、点訳の校正と、通常の印刷物の校正とでは、共通する点もありますが、相違する点もあります。

印刷物の校正は、手書きの原稿と、それを活版に組んだゲラ刷りとの突合せ(照合)という仕事です。 それに対して、点訳の校正は、五線譜と点字楽譜との突合せ(照合)ですから、一種の翻訳チェックの面を含んでいます。音列や、音符の長さなどは一義的ですが、強弱の記号の位置、連続の使い方、レ下がり記号の使い方等は、五線譜と一義的な対応関係にはなくて、点訳者の考え方、流儀によって違ってきます。

点訳の場合には、印刷物の校正で起こる種々の問題プラス翻訳で起こる様々な問題がからまりあって、大変複雑な問題を生じている、といえると思います。

それに加えて、私が「校正はおそろしい」と思ったのにはもう一つ、別の問題があります。というのは、私のところに校正の仕事が来る時、ベテランのKさんが点訳したものの校正、あるいはKさんが校正したものの再校、というケースがあります。ベテランが目を通したものであるだけに、ほとんどミスがない、というのが、通常です。それでも、ごく稀にミスを発見することがある。そういう時、「ベテランのKさんでもミスをするんだな」と思って、ある意味でホッとしたりしていました。

ところが・・・・・・
最近読んだオーケストラの裏話の本の中に、こういう個所がありました。
――――歴史のある名門オーケストラに、どこかの指揮者コンクールで一位になった、というような若手指揮者が来ると、その実力を試すようなイタズラをすることがあるのだそうです。ホルンの3番とか、ヴィオラの4プルトのような、あまり目立たないパートの奏者が、わざと音を間違えるとか、リズムを間違えて弾く、これをちゃんと聴き分けてキチンと指摘すれば、「こいつはナカナカできるな」ということになるし、2度3度やっても聴きおとすと「コンクール一位といっても大したことないね」という評価がされる。(勿論、指摘がなくても本番ではちゃんと弾く)

・・・・・・この話を読んで、もしかすると、Kさんから私にまわって来た楽譜にミスがあったのは、わざと、私にまわす時に数ヶ所ミスを入れ込んでおいて、私がみつければ「ウン、キチンと校正してるな、よしよし」ということになり、私が見落とせば「何だ、まだまだダメだな」と舌打ちをして、最終稿はキチンと修正しておく、ということだったのではないか、という疑いが湧き起こって来たのです。で、この疑念を仲間のMさんにそっと打ち明けたところ、Mさんは一笑して、「Kさんはそんな意地悪をする人ではありませんよ、あなたの妄想ですよ」と言ってくれたのですが・・・・・・

いずれにしても校正というのは決して楽な仕事ではなく、重要な仕事であり、そして「おそろしい」ものであるということを、しみじみ感じているこの頃です。
点字楽譜普及会「トニカ」会員

次回もお楽しみに・・・。
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