点訳アラカルト


第21回
ルイ・ブライユの生家「点字博物館」を訪ねて(前編)
2003.5.27


点字博物館


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点字を始めてから一度は訪ねてみたいと思っていた、ルイ・ブライユ点字博物館に行く機会が思ったより早くやってきました。

2002年12月、友人から「フランス名画とその舞台を訪ねる旅」というツアーに誘われた折、旅の途中で友人と別れて私はひとりで夢にまで見た憧れをかなえることになりました。

博物館のあるクーブレ村はパリから北へ約40Km、ブリ県とシャンパーヌ地方に挟まれた草原の丘の斜面に位置しています。オルセイ美術館前からタクシーに乗り1時間程で着きました。ブリ地方の家屋の典型的特色を残している、ルイ・ブライユの生家は1951年に様々な過程を経て点字博物館として復興されました。ルイ・ブライユが仕事をした多くの機材や文書が収集されていて、点字の誕生・発展・使用方法などを見ることができます。また、当時の日常生活の様子が保存されており、現在は世界盲人連合会により管理・運営されています。

博物館の中庭に面した建物の壁面に取り付けられた大理石の板には、フランス語と英語で次のように刻まれています。

この家で1809年1月4日
ルイ・ブライユ
---- 盲人の使う突起式書法の発明者 ----
が生まれた。
彼は見ることのできない人々に、知識の扉を開いた

大理石の板

ブライユ家は一世紀以上にわたり馬具屋を営んでいたそうで、アトリエにはその遺品が展示されていますが、悲劇はそこで起こりました。ルイ・ブライユが3歳の時、両親の留守中に父親の仕事場で、皮を裁断するナイフを使って遊んでいた時、手が滑って刃が片目を貫き、さらにその感染症のため5歳で両目の光を失ったのです。

彼は、村の学校に2年間通った後10歳の時、世界で初めての盲学校として知られるパリ国立盲学校に入学することが出来ました。このパリ国立盲学校ではアルファベットを浮き立たせた線文字が使われていましたが、この文字では文を読むことも極めて難しく、まして盲人が書くことは出来ませんでした。

在学中に彼が考案した、6点のポイントで表すアルファベットの点字デザインを、当時の王立盲学校の院長は認めようとはしませんでしたが、彼は17歳でパリ盲学校の教師になり、1829年にこの点字を紹介する本を出版し、生徒達には歓迎されたようですが、盲学校では浮き出し文字による教育が続けられていました。

パリ盲学校でこの点字の使用が正式に認められるまでには、考案されてから20年の歳月を要しました。このブライユ方式が目の見えない人々にとっての万人共通の言葉となり、楽譜など色々な分野にも広がりました。

フランス政府は彼の死から2年後の1854年、ブライユ点字を公式に認め、彼の死後100年を経た1952年、彼は創造の才を認められ、その遺体はクーブレ村からパリのパンテオン霊廟に移されました。

点字は英語でbraille(ブレイル) ですが、これは点字の考案者である Louis Braille (ルイ ブレイユ)から採ったものです。

トニカ会員 桑山 道子
続く・・・

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