トニカ通信

トニカ通信ご案内
創刊号 1998年4月
◎「トニカ」10年の思い出 代表 松永朋子

◆「トニカ」の点字楽譜を利用されている皆さんから
メッセージをいただきました
◇作曲家からのメッセージ 和波 孝禧さん
◇ずっと歌と一緒に 豆塚 正子さん
◇点字楽譜と私 畑野 菜歩さん
◇音楽大学での生活 三浦 裕美さん
◎編集後記

●トニカ通信 第2号 ●トニカ通信 第3号
●トニカ通信 第4号 ●トニカ通信 第5号
●トニカ通信 第6号 ●トニカ通信 第7号
●トニカ通信 第8号

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◎「トニカ」10年の思い出 代表 松永朋子

ページトップ トニカTonicaとは音階の第1音で、調名を決める音。音階の基礎になり、旋律の中心になる最も重要な音。主音(主和音)。分かりやすく言うと、トニカはドの音であり、ドミソの和音のことである。

1987年、楽譜点訳の会を設立するにあたって、そのグループ名を「トニカ」と名付けた。

事務所である私の自宅の一室には、1台の中古のパソコンと点訳システム。点字プリンターは、私の友人からの寄付を基に会員の会費前納という協力で購入した。かくして松園ハイツ401号室は私の仕事のピアノの音と点字プリンターの音で工場のようになってしまった。はじめから覚悟はしていたものの「トニカ」との同居生活はとても苦しかった。


その後1991年10月、同じマンションの101号室を「トニカ」事務所として借りることができた。マンションのオーナーのご理解とご協力がなければ現在の「トニカ」はなかっただろう。

「トニカ」の看板は掲げたものの、その当時点訳の経験者は2、3人しかいなかった。毎日、点訳依頼の電話が鳴る度に皆で息をひそめるようにしていたことを懐かしく思い出す。私自身が仕事を持っているため、点訳する時間は夜中になってしまう。

依頼者や点訳の先輩に質問をしたくても電話もできない。パソコンはいうことを聞いてくれない。点訳とはこんなに孤独な作業だったのだろうか。その当時中学生だった依頼者はその後音楽大学を卒業し、社会人となっている。また、プロの音楽家として活躍している若者もいる。

音大生の頃、点字楽譜がないために授業に参加できず、窓際族になってしまったり、テストで正しく評価してもらえなかったり、楽譜さえあれば仕事だってできるのに、という彼らの焦燥感や疎外感、怒りや喜びを私たちも共有してきた。その心が「トニカ」を支える原動力になっている。

今「トニカ」は会員も70余名となり、パソコン等の機器も増えた。かなり難易度の高い楽譜も何とか点訳できるようになった。パソコンに翻弄されていた点訳者も、電子メールで文通するまでに成長した。21世紀を目前に、点訳者として私たちはもう一度初心に立ち返りたい。

昨年の総会で、長年の懸案であった賛助会員制度の導入に踏み切った。全員が賛成だった訳ではない。それでも私たちは謙虚な気持ちで、多くの方々に点字楽譜を守り、育てていただきたいと願わずにはいられない。
(まつなが ともこ)

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◆「トニカ」の点字楽譜を利用されている皆さんから
メッセージをいただきました。

作曲家からのメッセージ 和波孝禧さん

ページトップ 私が初めてヴァイオリインを手にしてから、間もなく50年になる。長い間ひとつの道をひたすら歩き続けてこられたのは、何といっても私の回りで支えてくれた、たくさんの人たちのお陰である。そして同時に、子供の頃から私の上に訪れたさまざまな幸運も忘れてはならないと思う。

4歳の時私にヴァイオリンの勉強を薦めてくださったのは、童謡「くつがなる」などの作曲で知られる弘田龍太郎先生だったが、「楽器と一緒に点字の勉強も始めるように」とアドバイスしてくださった。お陰で、小学校に入学する頃には、点字の楽譜と日本語がほぼ正確に読めるようになっていた。まだ指先の肌が柔らかい子供のうちに点字を読む習慣をつけ、細かい桝目に点を打つ訓練をしたことが、今の私にどれほど役立っているか知れない。

22歳の時、私はイタリアのシエナで開かれる夏季講習「アカデミアキジアーナ」の室内楽クラスに参加した。ここで指導を受けたロレンツィ、ブレンゴラの両先生からは、楽譜を正しく読み取ることの重要さを教え込まれた。楽譜に書かれた細かい強弱の変化やスラー、アクセントやスタッカートの指示の一つ一つが、作曲家からの貴重なメッセージであり、我々はそれを正しく読み取って作品の意図に沿った演奏をつくり上げなければならない。

また、数人がアンサンブルを組む場合、唯一の拠り所は楽譜であり、皆が楽譜の忠実な再現のため心を合わせることで、初めて室内楽が成立する。こうしたことを学ぶにつけ、私は点字楽譜が自由に読めることに感謝し、同時にもっとたくさんの楽譜が読みたいとの欲求も高まっていった。

私のレパートリーのほとんどは、母の献身的な点訳によって確保されていたが、次第に生徒を教える仕事なども増え、それだけでは間に合わなくなってきた。イギリスなど海外でも点訳を依頼したが、一曲仕上げるのに半年もかかるありさまで、とても実用にはならなかった。そんな時、私は「トニカ」の存在を知ったのである。

毎年八ヶ岳で開催するサマーコースでの指導、弦楽オーケストラの指揮、サイトウ記念オーケストラへの参加など、現在私は通常の演奏活動以外にもいろいろな仕事に挑戦している。それらは、すべて「トニカ」の楽譜なしには実現できなかったことだ。「トニカ」の手になる新しい楽譜を読む時、私の指先から全身に大きな喜びが広がる。これこそ作品と私をつなぐ大切なホットラインなのだ。

目の見える人なら、市販の楽譜を買って読めば良いが、私たちが曲を研究し演奏するには、まず点字の楽譜がなければならない。耳からの記憶は曖昧すぎるし、伝える人の意思が加わり過ぎるから危険である。私は「トニカ」がますます発展し、日本の、そして海外の視覚障害をもつ音楽家のため、質の高い楽譜の提供を続けてくださることを切に願っている。
(わなみ たかよし:ヴァイオリニスト)

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ずっと歌と一緒に

豆塚正子さん

ページトップ 音楽というと、字のとおり音を楽しむということだけれど、曲も楽しみ方もひと様々だと思います。私の場合はどうだろうと、子供の頃から今までのことを振り返って思い浮かべてみました。

歌が好きだったのでそのことに限って書くと、小・中・高生までは、気に入った曲を初めて耳にすると胸がワクワクし、毎日かかさず見て覚えたり、レコードやテープで聞けるようになると何度も聞いて覚えました。歌えるようになると、一日中何日も繰り返し歌っていました。NHKのみんなのうたやミュージカル等、大きくなるにつれ音楽の枠が広がっていきました。

高校3年の頃から声楽を習い始め、コーリューブンゲンやイタリア歌曲をレッスン曲として歌うようになって、少しずつ歌との向かい方が変わり、楽しいという言葉だけでは言い尽くせないような、物足りないような思いもするようになってきました。それは社会人として乳幼児保育所に保母として働き、仕事が終わると、休み休みですが、合唱団に足を運ぶようになって余計そう感じるようになりました。

私が保母としてそれなりにできることは、もちろん歌うこと。他のことはまるでだめ。わらべ歌や手遊び歌を夕方5時、ちょうどお迎えのちょっと寂しくなってくる頃に、(子供を)膝の上に乗せ、手をもって視線を合わせて歌ってあげると、安心するのかとても喜び、みんなそばに寄ってきて何度もせがみます。合唱団の歌う曲では、生活の苦しみ、悲しみ、喜びを共に分かち合えるような歌をみんなで歌い、そしてホールでピアノやオーケストラの伴奏で発表した時の壮快感はすばらしかったです。

特に視力が下がり、十年勤めた職場を退職した時に歌った「とわのみどり」という被爆四十周年のコンサートで歌った曲が今でも忘れません。

視力障害者としてほとんど立ち止まらず、第二の人生を歩んでいけるのは、この歌が私を励まし勇気づけてくれたからだと思っています。子供たちと歌ったわらべうたも「とわのみどり」も私にとって、思い出の曲、元気になれる大きなものに包まれているような、熱くなる曲になりました。

今は針灸士として開業しながら、声楽をずっと続けています。もう20年以上習っていますが、なかなか上達しません。でも、歌を続けていて良かったなと思っています。歌詞の中に入り、自然の風景を想像しながら歌うのが楽しく、私だけの世界でいられるのがうれしいです。

今では、どんなに悲しい時も、悔しい時も、どんな時も歌だけはいつも一緒。そばにいてくれたら大丈夫という気持ちです。一番輝いていられるところです。音楽は、本当にいろんなふうに楽しませてくれます。
(まめづか まさこ:和歌山県在住)

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点字楽譜と私

畑野菜歩さん

ページトップ  私は、小学校3年生から点字楽譜を使い始めました。6歳の頃から、ピアノを始めて、それまでは5線を書いて、その上にフェルトで、音符をはったりしてやっていました。そして、点字楽譜にかえて、いろんな曲をやってみて、前よりも長い曲やむずかしい曲をできるようになりました。まだ、わからない記号なんかがたくさんあるけど、1年生や2年生の頃よりはずっとシャープやフラットなどの記号がわかりやすくなりました。

それから、点字楽譜はすごいと思います。なぜかというと、いろいろな記号などを組み合わせて、いろいろなことが表せるからです。それに、すみ字の楽譜とちがって、音列なども記号で表してあるのでわかりやすいです。点字楽譜の右と左が交互に書いてあるのも、合わせるときなどに合わせやすいと思います。

そんな点字楽譜をもっと勉強すれば、もっといろいろな曲が弾けるようになると思うので、点字楽譜の記号などをもっと勉強したいです。

だんだん曲がむずかしくなっていくと記号なども増えて大変になると思うけど、いっしょうけんめい、やりたいと思います。
(はたの なほ:埼玉県在住 小学6年)

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音楽大学での生活

三浦裕美さん

ページトップ 私は、3年前、筑波盲学校を卒業して、現在は、エリザベト音楽大学でピアノを専攻しています。これまで、盲学校しか知らなかったので、健常者の人と一緒に過ごしていくことへの不安もありましたが、先生方や友達に支えられ、充実した大学生活を送っています。

障害のない人と同じ場所で生活することが初めての私にとっては、全てが新しい体験でした。盲学校の中では、障害を持った人ばかりなので、自分にも回りの人にもこれが普通のことでした。しかし、今、私の回りに障害者はいません。今まで、自分が普通だと考えていたことが、他の人にとっては特別なことであり、他の人が普通にしていることを私は悩み、苦労してこなしていかなければなりません。自分が障害者であるということを意識するようになったのも大学に入ってからでした。

自分が普通と考えていたことの一つは、演奏しようとする曲を練習を始める前に覚えるということです。楽譜を見ながら演奏することはできないので、初めに覚えてしまわなければなりません。楽譜に書かれていることを記憶してから、練習に入るのです。見ながら演奏できない私たちには、このようにするより他に、方法はないのです。しかしこのことは、健常者にとっては、特別なことで、普通にできることではないと友達に聞いたことが何度もあります。

音楽以外にもいろいろな場で多くのことを経験し、学びました。障害者として、音楽家として、人間としての自分の考え方、生き方についてを今でもよく悩んでしまいます。

大学生活もあと1年を残すだけとなりました。将来は演奏活動を目標にしていますが、これからもいろいろな経験を積みながら、現実の社会がどのようなものであるかということを知っていかなければと思っています。

「トニカ」の方々には高校の時からお世話になっています。いつも、私の勝手なお願いばかりで、ご迷惑をお掛けしています。大学に入ってからは、試験の課題曲が1ヵ月前にならなければ発表されないので、それから点訳をお願いしたこともありました。

視覚障害者が音楽活動をしていく上で、問題となることの中に楽譜のことがあると思います。点字楽譜は、普通の楽譜のようにすぐに手に入るものもありますが、点訳されていないものは、お願いしなければなりません。大学でも授業中に楽譜を渡されて、次の授業までに見てくるようにというようなことがよくあります。こういうことは、社会にでてからは、今以上に多くなると思います。

私は、今すぐには使わなくても、こういう楽譜が欲しいと思ったものはお願いするようにしています。点字楽譜を必要とする私たちがいろいろな楽譜を点訳していただき、私たち自身で点字楽譜を増やしていかなければならないと思います。

「トニカ」の方々には、今まで以上にお世話になると思います。そして、これから、ひとりでも多くの方に点字楽譜を知っていただくことができたらと考えています。
(みうら ゆみ:広島県在住)

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◎編集後記

「トニカ通信」創刊号をお届けします。
今回は4人のさまざまな「トニカ」の利用者(ユーザーと呼んでいます)の方に点字楽譜とのかかわりについて書いていただきました。東京の一室で作られる「トニカ」の点字楽譜は広く各地で利用されているのですね。
今後とも「トニカ」をよろしくお願いします。   (広報)

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