トニカ通信

トニカ通信ご案内
第10号 2008年4月
◎指先の想い出・・・そして未来へ
点字楽譜普及会「トニカ」代表  松永 朋子

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◆◇◆◇◆目次◆◇◆◇◆

◇トニカの事務所を訪問して 神作 悦穂
◇私と点字楽譜 長澤 晴浩
◇ここだけのはなし 会員番号43番
◇20周年記念行事を終えて トニカ会員  把田 隆子

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◎2007年度「トニカ」活動報告抜粋
◎ようこそトニカへ
◎編集後記

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●トニカ通信 創刊号 ●トニカ通信 第2号
●トニカ通信 第3号 ●トニカ通信 第4号
●トニカ通信 第5号 ●トニカ通信 第6号
●トニカ通信 第7号 ●トニカ通信 第8号
●トニカ通信 第9号

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指先の想い出・・・そして未来へ 代表 松永朋子
ページトップ 私が点字楽譜を知ったのは1981年の夏のことでした。

楽譜点訳のグループに入り、そこで30マス、6行の点字練習器を借り、それに点字用紙をはさんで、先ず五十音の一覧表から自分の名前を探して点筆で押してみました。紙をはずしてそっと指で触れてみると、それは少しチクチクと指にあたりました。先輩方の書いた点字は丸くて優しい感覚なのですが、私が書いた点字はよく見ると穴のあいた点もあります。紙に対して点筆が垂直にあたらないと先輩方のように丸い点字にはならないと教えて頂きました。その時初めて書いた点字の感覚、少しチクチクした感覚を今でも覚えています。楽譜の点訳に入ってからも、しばらくの間私の書いた点字はチクチクしていました。指に鋭くあたる点字の楽譜を読まされる点字使用者には大変気の毒だったと思います。

その後ライトブレーラーというタイプライターを使いました。夜半に点訳するとガシャガシャと音が響きます。そこでタイプライターの下にタオルを敷く事を教えて頂きました。タイプライターで書いた点字も、紙をはずしたらそっと触れてみました。チクチクした感じは随分なくなりました。

その後パーキンスブレーラとアポロブレーラという凸面から書くタイプライターを友人から譲ってもらいました。それでたくさんの楽譜を点訳しましたし、また楽譜の点訳を始めてから出会った視力に障害を持つ友人達に手紙を書いたり、友人たちが必要とする楽譜を点訳したりしました。私にとって点字はボランティアをするためのものというより、日常的な、必要なものになっていました。

パソコン点訳になり、携帯電話が普及し、メールが主な伝達手段になり、私は点字で手紙を書くこともなくなりました。点字を指先で確認する事もなくなりましたが、初めて触れた点字のチクチク感を今でも覚えています。

パソコン点訳の重要性、ネットワーの重要性を教えてくださったのは、浦口明徳さんです。浦口さんは私を「トニカ」設立に導いてくださいました。

しばらくの間浦口さんが管理するブレイルマスターという大型のパソコン装置が、私が借りた事務所においてあり、その頃サラリーマンだった浦口さんは、会社帰りに毎日事務所に寄り、作業をしていました。毎日毎日、コンビニのおにぎりとお茶を片手に。ある時は日曜日も作業をしていました。

ある日、その部屋からピアノの音がするのです。壁越しに微かに聞こえるのは確かにドビュッシーのピアノ曲でした。浦口さんは作業の合間によくピアノを弾いていました。本当は楽譜の点訳に一番興味があるのだと言っていました。サラリーマンを辞め、名古屋盲人情報文化センターの所長として赴任する前日、「トニカ」の事務所に寄って下さいました。

昨年の6月21日、私たちは「トニカ」設立20周年を記念する会を催しました。まるでクラス会のように、懐かしい方々に集まっていただきました。バイオリニストの和波孝禧さんも奥様の美寧子さんとご列席くださり、お祝いにバイオリンの演奏をしてくださいました。

私が楽譜点訳をはじめた頃に出会った視力に障害をもつ友人達もトニカのユーザーとして、また他のグループで活動する点訳のお仲間も多く参加して下さいました。本当に嬉しかったし、感謝の気持ちでいっぱいです。「トニカ」は素晴らしいユーザーの方々に恵まれました。だから点訳の技術も向上することが出来たと思っています。

その席で私の隣に座ってくださるはずの浦口さんは、当日出張だということで残念ながら欠席でした。でもトニカ通信の20周年記念号には、《永遠なれ「トニカ」》というメッセージを寄稿して下さいました。

その浦口明徳さんが10月6日に亡くなりました。私が入院先の病院を訪ねた時には既に命の時間は限られていました。ベッドでの浦口さんは本当に具合が悪そうでしたが、お得意のオヤジギャグは健在で、私は何度も煙に巻かれました。「トニカ」の発展を心から喜んでくださいました。

私たちはパソコン点訳の行く末についても話しました。私たち点訳者は点訳後のデーターの管理に追われて大変だという話から、私がパソコン点訳した楽譜は誰のものか、というような事を訊ねたら、浦口さんはすぐに「その曲を作曲した人のものだよ、自分達はデーターを預かっているだけだよ。」と言い、「そうでしょう?」と私に同意を求めましたが、私はすぐには答える事が出来ませんでした。

私の心の中には今でも浦口さんのその言葉が活きています。点訳された楽譜は誰のもの?今ならこう答えます。点字楽譜はそれを必要とする全ての人のもの。そして最後にはユーザーを通してその楽曲の作曲者に捧げたいと思うのです。これから私たちはどれだけの年数を楽譜点訳にかかわっていかれるでしょうか。

この楽譜の点訳という喜びと幸福感をどれだけ味わっていられるでしょうか。
「トニカ」の未来へ向けて思うことは、メンバーひとり一人がクリエーターでありプロデューサーであるということ。活動の原点はユーザーひとり一人のニーズに応えていくことです。ユーザーのニーズとはただ要望だけではありません。その奥にあるもの、それは音楽する人の幸福感ではないでしょうか。それこそがユーザーと我々楽譜点訳ボランティアを結ぶ共通の思いです。それはどのような時代になっても変わりません。

私はこの春「トニカ」を卒業いたします。会の代表を辞し、「トニカ」を退会します。30代の半ばから還暦を過ぎた今日まで、私にとって「トニカ」は生活そのものであり、メンバーは喜怒哀楽を共にした家族のようでした。私は「トニカ」によって育てられたと言っても過言ではありません。感謝の気持ちでいっぱいです。そして「トニカ」のメンバーでいた事を誇りに思います。 浦口明徳さんの言葉を借りて私も言いましょう。
永遠なれ「トニカ」!
(まつながともこ  2008年2月記)
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はい、おまかせください!
船長が上陸した後の「トニカ丸」は、この春より東京湾を離れ、新たな船出をいたします。どうぞ皆様、無線で誘導よろしくお願いいたします。  
乗組員一同

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◇トニカの事務所を訪問して 神作 悦穂
目次へ戻る わたしは、先日トニカの事務所を訪問させていただきました。それまでわたしは「マンションの一部屋を事務所として使っている」といいながら、なぜ電話が通じる時間がこんなにも短いのか不思議でした。それは、わたしもマンションに住んでいるので、どうしてもマンションと聞けば誰かが住んでいると思っていたからです。

そこで、松永さんにお願いして、事務所へ連れて行っていただくことにしました。そうしたら、やはり「事務所専用の一部屋」であることがわかりました。本当に長年の疑問がとけたようでほっとしました。その上、松永さんのご都合がよろしいのが、大抵金曜日だそうです。

あの頃は9月の末で、丁度わたしが仕事をやめてゆったりしていた時期です。今はもう金曜日は仕事なので、なかなか休まない限り行くことができません。あの日、本当に松永さんには無理をして都合をつけていただき、しかもおいしいお菓子も買ってきてくださり、心より感謝申し上げます。そして、そのほかのみなさまにも、駅まで迎えに来てくださり、感謝の気持ちでいっぱいです。どうもありがとうございました。

最後になりましたが、わたしはトニカに登録してから、かれこれ10年ぐらいになります。筑波大学付属盲学校音楽科、および高崎芸術短期大学音楽科でピアノを専攻しました。

しかし、教員免許中学校音楽2種も取得したので、歌など、そのほかの楽器もいろいろと演奏していました。どうしても耳コピーだけでは限界があります。ですから、それらほとんどすべてにわたって、点字楽譜は欠かせないものです。こうして、トニカのみなさまには大変お世話になりました。深く感謝申し上げます。

しかし、わたしは、その後またヘレン・ケラー学院へ通い、あはき師の免許を取得しました。そして今はマッサージの仕事をしているので、ここ数年は、楽譜の依頼はしておりません。それでも、毎年送られてくる「トニカ通信」を、楽しみに読んでいます。そして、また、いつの日にかトニカの楽譜を購入して、演奏したいものです。

どうかみなさま、今後ともよろしくお願いいたします。
(編集部注:「あはき」は、あんま はり きゅう)
(かみさく えつほ)

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私と点字楽譜 長澤 晴浩
目次へ戻る 小学2年生の終わりから習い始めたピアノ、その時から出合った点字楽譜。
楽譜以外の点字(50音や数字など)も、まだまだたどたどしくしか読めない私にとっては、「平井点字社」から買って貰った「バイエル」の曲を、嫌々ながら譜読みの日々でした。 でも、ピアノに触っているのは好きだったので、少しずつ遊びながら覚えていきました。

60番を弾く頃からはそれなりに自力で譜読みらしい事ができるようになってきました。 当時の点字楽譜は、「平井点字社」から売られているものを買う以外には、なかなか自由に入手することは困難でしたし、細かく点字楽譜を教えて下さる方々も私の周りにはいらっしゃいませんでした。

「この記号はどのように演奏するのかなあ?」のような問題が在れば、次のレッスンの時に先生に質問したり、レコードなどが在れば、買って聴いたりして、「きっとこの記号は、こうやって弾くんだあ!」なんて言いながら、細かい所は覚えていきました。

点字楽譜の点訳法(ことに和音の書き方)には、大きく分けて音程法・音符法が有り、また、音符法は「音符法T」と「音符法U」の2つの書き方が在ります。「平井点字社」の点訳法は、1973年頃を境に、『音符法U』を採用していましたが、実際に売り出されていた楽譜は、『音符法T』と『音符法U』が、同じ曲の中で混ざり合った所も在ったので、楽譜解読に時間を費やしたことも、今では懐かしい思い出です。

一生涯ピアノを弾き続けたいと思い、音大を目指していた私にとって、ちょうど高校生になった年に、有り難いことに、視覚障害者の音楽家を中心とした「新星'78」という音楽団体が結成されたのです。音大にも入学でき、そして卒業してからの演奏活動の足がかりとなるものでした。

また、音大入学年には、「楽譜点訳の会『星』」が発足され、楽譜点訳の会が、その後相継いで作られていくきっかけとなっていきました。まるで私のためにいろいろな会が作られていくみたいで、いろいろご尽力下さった諸先生方、諸先輩方に感謝しきりでした。

他にも、欧米の点字楽譜の直接購入が、「日本楽器」の取り次ぎ販売のお陰で、できるようになったこと、五線譜を点訳グループに持って行けば、自分だけの点字楽譜を作って貰えるようになっていったことは、勉学のために大いなる後ろ楯となりました。

音大を卒業後、私も「楽譜点訳の会『星』」の会員に加えていただき、点訳者や実際に点字楽譜を利用しているユーザー会員が、点訳法の研究をしているのを目の当たりにして、たくさんの事を勉強いたしました。そのことが、演奏する上で、大きな力となっているように感じます。

パソコン点訳が進む中で、多くの点字楽譜の点訳グループもでき、それぞれの会が、細かい部分ではそれぞれの方法で、点訳研究や、それに基づいた点訳がなされるようになって来たのです。

今では「楽譜点訳の会『星』」の会員としてだけでなく、他の2、3の楽譜点訳の会にも顔を出して、私自身も、演奏活動の合間に、勉強させていただいております。演奏家にとっての楽譜は、欠かすことのできない大事なアイテムだと考えるからです。

この頃の、日本での点訳グループの楽譜点訳技術のレベルは、世界的にも高レベルだと私は思います。点訳速度、点訳の正確さ・・・。
基本的な事を除いて、いろんなグループがあり、いろんな点訳法が在ることはとても自然な事だと考えます。

五線譜でもそうであるように、ユーザーが、点字楽譜での自分に合った版を自分の意志で探して行けることが、今後長きにわたり大事なのではないかと思います。時にはドイツの楽譜、時には「トニカ」の楽譜、時には日本点字図書館からのピアノピース、などなど、細かい部分での統一より、良い意味でユーザーの自由な選択ができることが望ましいと考えます。

これからの点字楽譜にとってもっとも大事な事は、点字楽譜を使うユーザーの読譜の力のアップだと思います。
(ながさわ はるひろ)
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会員の中には、長澤さんに直接点訳を教えていただいた者も、在籍しています。
ドイツの楽譜、日点の楽譜、トニカの楽譜というふうに選んでいただける形は、私たちの望んでいる形でもあります。

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◇ここだけのはなし 会員番号43番
目次へ戻る 創立当時の先輩方の苦労も知らず、すっかりパソコン点訳になってから入会した会員番号43番は、ものすごーく面倒くさいカンニングペーパーを見ながらパソコンに入力してたなんて、口が裂けても言えません。

カンニングペーパーというのは、一枚の紙に横30マス、縦22マスの枠を作り、その中にこれから打つべき点を、黒く塗りつぶしていくという、極めて原始的なものでありました。

やっていくうちにカンペは進化し、一つの枠の中に六つの小さな線が入り、黒く塗りつぶす位置が解りやすくなりました。更にそれは進化を続け、頁数まで入れられるようになり、点訳よりカンペ作りの方に力がはいったものでした。

新人ですからと言い続けて早14年。点訳ミスが新人ですからの言葉で許されるはずもなく、奮闘努力の甲斐あって(?)、年月だけは中くらいのベテランの仲間入り。しかし、その頃がまた一番キケン。点訳ミスは「中だるみですから」。

念のため言っておきますが、あれから14年、新人の43番も、カンニングペーパーを見ないで入力できますって、当たり前か。
(かいいんばんごう43ばん)

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◇20周年記念行事を終えて トニカ会員  把田 隆子
目次へ戻る トニカが設立されてから20年。この記念すべき行事をどのように進めるのか、実行委員の中で再三アイディアを出し合うものの、なかなか具体化しない、気持ちばかりが先走り、結局、骨格が決まったのは2月でした。

その後、古くからのトニカのユーザーのお一人でもある、ヴァイオリニストの和波孝禧さんへのご出演依頼も快諾を頂き、桜の季節には会員の気持ちもまとまってきたようでした。

次に、招待状の発送がありますが、点字と墨字の方、墨字だけの方、点字だけの方3種類あり、準備にも工夫がいりました。事務所に行った日は、返事は何枚きているかと、はらはらどきどき。永年のユーザーの方々から出席の返事を受け取ったときは、パーティーを盛り上げなければと、妙に肩に力が入ったものです。

当日は、梅雨のさ中ゆえ、空模様が最も気になりましたが、幸いにも天候に恵まれ、大塚駅からユーザーの方々を、会員が手分けしてのガイドもスムーズに行き、順調なスタートをきれました。

会長の挨拶の後、和波孝禧さんと土屋美寧子さんによる演奏を、サロンコンサートのように間近で聴き、極めて贅沢なひとときを過ごしました。その後、電話で、「わあ、和波先生の前で弾かせていただけるんですか?!」と言ってきた、木村さん姉妹によるピアノの連弾があり、会場は暖かい雰囲気に包まれました。

多くの方々から、祝辞や励ましのお言葉も頂き、会が終わってからは、ユーザーの方々が、お互いに旧交を温められたり、交流の場となりました。そして、点訳依頼をされた方も出席なさっていたので、「ここは、どういうふうに点訳いたしましょうか?」と、点訳者が直接お聞きする場面もありました。トニカの場合は、ユーザーの方々とお会いすることが少ないので、とてもよい機会がもてたと思っております。

トニカの賛助会制度を立ち上げてから、10年あまりになりました。
その間、点字楽譜を原本価格に近づけたい、安く提供したいという、われわれの気持ちを支え続けてくださった賛助会員の方々に感謝の気持でいっぱいです。

記念行事として、パーティーをする事が決まるまでは、賛成・反対いろいろありましたが、終わってみれば、在籍しているトニカの会員が殆ど出席。楽譜を点訳するという目的で集まったメンバーが、ひとつにまとまり、成し遂げたという充実感にひたりました。

これからは、視覚障害の方々が点字楽譜を読んで、それを音楽に表現する場面が増えてくれればと願っております。 
(たばた たかこ)

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2007年度「トニカ」活動報告抜粋
目次へ戻る 5/28 NHK「首都圏ネットワーク」で活動ぶりを放映
6/21 20周年を記念する会開催
6/22 毎日新聞ユニバーサロンに記事掲載

その他

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ようこそトニカへ
目次へ戻る 私たち会員は、近くは板橋区内から、遠くは神奈川県厚木市から通ってきています。この情熱は、何なのでしょう。 ここで、トニカの事務所をちょっと覗いてみましょう。

午前10時半、玄関左手の1号室から話し声が聞こえてきます。この部屋には電話と大きな机があります。どうやら点訳の相談をしながら製本をしているようです。右手の2号室からは大きな音が響いてきます。2台の点字印刷機がフル稼働しているようです。機嫌の悪いコピー機と格闘している人もいるみたい。

6台あるパソコンの前では、ユーザーさんから頂いたメールに返信したり、点訳したものを修正したり、事務作業をしたり、みんな一生懸命です。
おや、お風呂場に入っていく人が・・・。びっくりした! お風呂場には製本用の材料がしまってあるのですね。そういえば、押し入れだったところには、カラーボックスを上手に組み合わせて本棚が作られていて、楽譜や参考文献が、キチンとラベルを貼られて並んでいます。

あら、電話が鳴っています。 「・・・○○の点訳ですね。 期日は2ヵ月後までに。音程法でよろしいですか? ・・・」
今日も忙しそうですね。

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◎編集後記
目次へ戻る 40肩50肩も何のその、今年もやってきましたトニカ通信。

今回は、会長卒業という、大番狂わせの中の編集作業でした。さて、次回の巻頭言は誰が書くのでしょうか。乞、ご期待。

「楽譜の点訳がしたい」と集まった私達。点訳だけでなく、トニカ通信の発行、校正からレイアウトまで、全くのシロウト集団がやることですから、行き届きませんが、そこは原稿を送って下さった方々の文章でフォローしていただき、発行へと漕ぎ着けました。
ありがとうございました。

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